デレク・ハウス「グリニッジ・タイム」

人類はなぜ精密な時計を切望するようになったのか?
船乗りたちが洋上で経度を知るのに不可欠な道具だったからでした。
やがて、鉄道の発明により、列車のスムーズな運行のために数多くの時計を同期させる必要が生じ、そこでも標準時が不可欠になりました。

現代でも相変わらず高精度の時計の果たす役割は変わっていません。原子時計を搭載したGPS衛星の送信する高精度時報を地球上のどこでも誰でも受け取れるようになり、それを使って経度と緯度を求めることができるようになりました。インターネットNTPプロトコルで、全世界のコンピュータの時計が世界時に同期されるようになりました。

インターネット・メールやHTTPメッセージのヘッダを覗いてみるとグリニッジ・タイムを表すGMTの3文字を目にすることができます。これは、インターネットのプロトコルが誕生した頃は、まだアメリカでは世界時それすなわちグリニッジ・タイムであった名残りです。グリニッジ・タイムの本質はグリニッジ天文台の子午線を本初子午線として自転する地球を天体観測によって基準時計として利用したものですが、現代では地球の自転では精度が不十分で、パリに設置された原子時計を基準時計にした世界時に移行しています。それでも、1990年にグリニッジ天文台が最後の時報を発するまでの300年近く、世界時として利用されてきたグリニッジ・タイムの資産は本初子午線とタイムゾーンに受け継がれることになりました。

グリニッジ・タイム―世界の時間の始点をめぐる物語

グリニッジ・タイム―世界の時間の始点をめぐる物語

本書は、精密に時を測るために人類が辿った科学と工学の歴史へと読者をいざないます。失敗談を含む大事業にかかわってきた人物達のドラマを追いかけていきます。初版は1980年にイギリスで発刊され、本書は21世紀の始まりを記念した1997年の改定版の邦訳です。

本書の前半部分には、古代ギリシャ時代に月の運行という自然の時計を使うアイデアの誕生から、それが実用に耐えるレベルに達した18世紀のイギリスの王立グリニッジ天文台の天体運行表の発刊に至るまでの紆余曲折の数々のエピソードが散りばめられています。イギリスが他の国と異なっていたのは、経度の発見者へ賞金を用意しただけでなく、国家事業として経度委員会を設立して100年間に渡る事業を完遂したことでした。高精度の天体運行表と海図の発刊から船舶用クロノメータの開発と続き、この業績によって国籍を問わず航海の経度測定にグリニッジ・タイムが一般的に利用されるようになったのでした。それにしても、当時はニュートンの時代で、ニュートンはもちろん、初代天文台長のフラムスティードだけでなく、2代所長のハレーもアクの強い人物であり、どろどろした確執劇が繰り広げられていたようです。

中盤部分では、郵便と鉄道の標準時間にグリニッジ・タイムが採用されていった過程と、時報の歴史を読むことができます。郵便と鉄道は数多くの時計合わせが必要で、標準時を定めて時計を同期しないといけなかったため、まっさきに採用されたということです。時報の始まりは、グリニッジ天文台の建物の屋上に設置された時報球の上げ下げによる機械式のものを目視でおこなうやりかたでした。クロノメータが登場してからはそれが行き来するようになりました。なんでも、グリニッジ・タイム・レディなるご婦人がロンドンの時計屋さんをめぐっていたとか。それが、有線の電気仕掛けを使うようになり、ついに無線の時報局が始まりました。余談ながら、相対性理論の物理の教科書の説明図に登場する懐中時計は、あれはクロノメータを図案にしたものだということに、本書のこのくだりを読んでいて思いあった次第です。

終盤では、グリニッジ・タイムが世界時へ採用された19世紀の動きから、原子時計を基準時計にした世界協定時へ移り変わっていった20世紀後半を追いかけて、本書は終わります。まず、国際政治の利害対立のすったもんだを経て、天文学者のためと航海者のためのグリニッジ・タイム(位相が一日ずれている)と陸の常用時間が国際時へ多数決により統一され、本初子午線をグリニッジ天文台の経度に定めることで、日付変更線とタイムゾーンが決定されて陸と海をカバーしました。ところが、ジェット機の時代が到来することで精度が不十分となり、20世紀の後半にパリに設置された原子時計を基準時計とするUTCに移り変わります。もちろん、その際に本初子午線とタイムゾーングリニッジ・タイムから受け継がれています。

本書の引用は公式書簡、新聞記事、手紙と多岐に渡っており圧巻です。中でもおもしろいのは18世紀の当時に使っていた暗号文の紹介で、サー・クリストファー・レンが海上での経度の発見に適する観測用機器のアイデアを記した暗号文が70ページに掲載されています。直後に解読された内容が記載されていますが、それを見ずに自力で解読してやろうと四苦八苦して数時間を潰すのも一興かと。ええ。ええ。私は解読できませんでしたとも。

口絵だけでなく本文中にも選りすぐった図版が多く掲載され博物趣味をおおいに満足してくれます。古い時代の頃は絵画が主ですが、やがて写真になっていき、図版を追いかけていくだけで時代の移り変わりが伝わってきます。読んで満足、見て満足できました。

補遺は、経度の算出、天文学による時刻の算出、グリニッジ恒星標準時の解説の3節からなります。ところが、これが図版と文章による解説だけで、数式がないのでぱっと見でわかりにくいなと感じました。補遺なのですから、数式を載せてくれたら良かったろうにと、ここだけが残念な点でした。